2022年1月12日よりフジテレビ「+Ultra」にて放映中、FODにて独占配信中のテレビアニメ「平家物語」。
その第8話「都落ち」の考察・内容整理などを行っています。
- 「平家物語」初心者が書いています。あくまでも私個人の感想、ネタバレ、考察ですのであらかじめご了承ください。
- 地上波では2022年1月12日より、フジテレビ「+Ultra」枠にて放送中。
平家物語 第8話「都落ち」あらすじ
清盛亡きあと、資盛(CV岡本信彦)に平家を追いだされてしまったびわ(CV悠木碧)は自身の母親を探すために京を出る。行先は越後(現在の新潟県)だ。びわの母はどうやら平家にゆかりのある越後守・城資永(じょうすけなが)の側室らしい。
一方、各地で平家を討ち落とさんとする動きが相次ぎ、東国をおさめようとする源頼朝(CV杉田智和)と木曾義仲が頭角をあらわす。特に勢いに乗っているのが木曾義仲だ。
彼は信濃(現在の長野県)を平定し、そのまま北陸方面へ向かう。ここで義仲を食い止めなければ京への侵略はまぬがれないと悟った平家は重盛の嫡男・維盛(CV入野自由)を大将に据え、砺波山(現在の富山・石川)付近へ向かうのだが…。
- びわ(琵琶法師の娘)
- 平時子(清盛の妻)
- 平宗盛(清盛の三男)
- 平知盛(清盛の四男)
- 平重衡(清盛の五男)
- 平徳子(清盛の娘・高倉天皇の中宮)
- 平維盛(重盛の長男)
- 平資盛(重盛の次男)
- 平清経(重盛の三男)
- 平敦盛(清盛の甥)
- 後白河法皇
- 安徳天皇(高倉天皇の息子)
- 源頼朝
- 北条政子(頼朝の妻)
- 源(木曽)義仲(頼朝のいとこ)
- 巴御前(義仲の妾)
平家物語 第8話の考察(頭の整理)
第7話で高倉上皇が亡くなりました。徳子との間にできた幼い息子・安徳天皇では政治を行うことができないため、再び後白河法皇へ権力が戻ってきています(院政の再開)。
また以仁王の挙兵以降、平家をよしとしない者たちが各地で暴れはじめました。そのなかで頭角をあらわしているのが源頼朝、そして彼の従兄弟である義仲です。
後白河法皇の院宣(平家討伐命令)を受けた頼朝は流刑先であった現在の神奈川県あたりで挙兵、義仲は現在の長野県あたりで挙兵しています。
この時点で頼朝と義仲は特に連携がないように描かれていますが、ともに目指すのは京。平家を追いだして源氏の世を作ろうとしています。
8話はざくっとこのような流れです。
- 墨俣川の戦い(勝:平氏)
- 火打城の戦い(勝:平氏)
- 倶利伽羅峠の戦い(勝:源氏)
本来はほかにも細かい戦いがあるのですが、書き出すとワケが分からなくなるので(笑)割愛しますね
しだいに大きくなってゆく各地での反乱・源氏の勢力に、絶対権力者・清盛亡きあとの平家一門はどう抗ってゆくのでしょうか?
第8話って何年の話?
第8話は治承5年(1181年)3月ごろ~寿永2年(1183年)7月ごろの話と推測しています。根拠は以下の通り。
①墨俣川(すのまたがわ)の戦い
番組冒頭、びわがとある民家でご飯をごちそうになっている際、民家のおばあさんが「最近は墨俣川で平氏と源氏の戦いがあった」と言っています。
墨俣川は岐阜県~愛知県あたりを流れていた川のことで、現在の長良川です。
この墨俣川の戦いは治承5年(1181年)3月10日に起こったとされています。
この時点でびわが京から遠く離れ、東海地方まで歩いてきたことがわかりますね
②倶利伽羅峠の戦い
第8話では「倶利伽羅峠の戦い」が描かれています。
倶利伽羅峠の戦いは平家と木曾義仲が争った戦で、寿永2年(1183年)5月11日に起こったとされています。
③義仲の京進出
倶利伽羅峠の戦いで勢いに乗った木曾義仲は、平家のいなくなった京へ進出。
その日が寿永2年(1183年)7月後半とされています。
恨まれる平家
絶対権力者の清盛が亡くなってから、平家の頭領は三男・宗盛にゆだねられました。
しかし当の宗盛は役立たずなうえに毎晩宴ざんまい。その情けないようすに、宗盛の弟・重衡や重盛の嫡男・維盛は不安が募ります。
なぜなら宗盛がだらだらしている間に、各地で平家に歯向かう輩たちが続々とあらわれているからです。
打倒平家の中心にいるのは東国(現在の関東地方)で挙兵した源頼朝、そして信濃(現在の長野県)で挙兵した源義仲(通称・木曾義仲)です。
ちなみにこれ以外にも「平家きらーい!」と言ってる武将は各地にいますし、焼き討ちにされた園城寺や興福寺・東大寺に加え、比叡山延暦寺も平家を裏切って源氏についています。
なので四方八方から平家は恨まれている状態なのです。
墨俣川の戦い
びわが母を訪ねて越後に向かう途中、尾張(岐阜・愛知あたり)のとある民家でご飯をごちそうになります。
その際、おばあさんが「墨俣川で戦いがあった」と言っています。
これが墨俣川の戦いと呼ばれるもので、平重衡が源行家(頼朝の叔父さん)と激戦を繰り広げ勝利します。
平家はなんとか尾張を平定し、東国の頼朝を討伐しようと試みますが断念。
断念した理由はいくつかあるようですが、この時期大きな飢饉があったようで、兵糧が不足したことが一因ではないかと言われています
このあと、尾張を平定した平家は越後守・城資永(じょうすけなが)と協力し、東国の包囲網を敷きました。
木曾義仲の台頭
しかし、平家の敵は源頼朝だけではありません。
同じころ信濃で兵をあげた木曾義仲が勢力を増してきており、信濃を平定後に北陸に向かっているというのです。
これに危機感をつのらせた平家の頭領・宗盛は平家の味方である越後守・城資永(じょうすけなが)に義仲討伐を依頼。
しかし、運悪く病で越後守・城資永が急死しています。
城氏は一説によると脳卒中だったのではないかと言われていますが、アニメでは東大寺の大仏を焼いた平家に味方するものへの天罰として描かれていますね
ちなみにこの城氏の側室がびわの母(浅葱の方)と言われています。
倶利伽羅峠の戦い
義仲のもとには越中・加賀・越前の武士たちが集まり、兵力を強めていました。
さすがに北陸の平定を許せば、義仲は京へと攻め込んできます。
そこで維盛は10万の兵を率いて北陸へと向かいます。もちろん目的は義仲を倒すこと。
しかし、最初こそは源氏方の兵を打ち負かしてはいたものの(火打城の戦い)、いよいよ義仲との直接対決を控えたある夜、平家は義仲の兵に挟み撃ちされます。つまり奇襲にあったのです。
平家の武士たちは慌てて砺波山(富山県・石川県)中に逃げ込みますが、それすらも義仲の罠。
義仲は北陸の地形を知り尽くしていたのです。
逃げ惑う平家の武士は義仲の術中にはまり、そのまま倶利伽羅峠の谷底に真っ逆さま。
約10万いた兵力のうち7万人が命を落としました。
都落ち
倶利伽羅峠の戦いで兵力のほとんどを失った平家は急速に権力を失い、都を去り大勢を立て直そうとします。
なぜなら西国にはまだ平家に味方してくれる武士たちがいたからです。
まず、高倉天皇と徳子を連れて向かったのは福原。その福原も清盛亡きあと、無残にも落ちぶれていました。
平家は京の屋敷、福原の屋敷を燃やし、最終目的地の大宰府(福岡)へと船を向かわせるのでした。
このころから、重盛の三男・清経は精神的に落ち込むことが増えました。
一方、平家に勝った義仲は20年ぶりに京へ進出。徐々に平家から源氏へと権力が移行していきます。
平家は赤い旗、源氏は白い旗で「久々に白旗を見た」というセリフが印象的ですね